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中目黒祐二のブログ

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日記

大阪ラプソディ 2


翌朝目覚めると、きらめいていた御堂筋の街路樹が朝の光に黄色く染めあげられていました。
大阪の朝です。
街がとても綺麗でした。
街・・・・・。
様々な形で時代とともに変化していく・・・。
今回も色々と勉強させていただきました。
僕にとって、大阪再発見でした。
まず、大阪は「水の都」だったこと、さすが商人の街「活気と努力」にあふれていて、東京ものは「まだやることあるねん」です。
大阪の街は、川が物資を運ぶ動脈として17世紀ころ天満、堂島、北浜を中心に栄えていました。
江戸時代、全国の物産の70%が集まる資本主義経済都市でした。
イタリアの古代商業都市ベネチアのようなところだったのでしょうか。
また、アメリカより240年も先駆けて先物市場があったそうです。
おそらく、ビジネスに集う人たちで街が形成されていったかと思います。
商談の場として飲食店、生活のための商店、娯楽場、今で言えば、レストラン、カフェ、ストア、エンタメでしょうか。
ただ当時の土木技術、高いものは建てられないため、街は中心から横に広がっていきます。
そして大阪の街を劇的に変えたのが鉄道です。
1874年に現在の梅田(大阪駅)と神戸を結ぶ路線が開業し、同時期に現在の難波駅が開業しました。
なぜ、堂島周辺に鉄道が来なかったのでしょうか。
まず、市街地を壊して鉄道や駅を作るため、コストと時間がかかります。
そして当時の蒸気機関車、煙に対する問題や鉄道と言う新しいものに対する不安感による住民の合意が得られないことがありました。
日本の大きな街で旧市街と駅が離れているのも同じ理由です。
阪和線が市街地を避けたのも同様です。
鉄道の発達とともに、水路が主要な物流から鉄道に変わり、郊外に延びる鉄道がひとの流れも変えていきました。
街の中心が広がり、堂島周辺から分散され拠点も難波(ミナミ)と梅田(キタ)に変化していくのです。
戦後、物流はさらに変化し、車になっていきました。
水路は、すでに物量の要ではなくなり、堂島周辺も街の中心とは呼べなくなりました
そこに新たに中心を貫く路線、地下鉄が出来たのです。
梅田から心斎橋を通り、難波まで通る御堂筋線。
ここに新たに形成された街、地下街です。
その昔、「人々が地上にいなくなる」と言うほど賑わいました。
船場にある地下街「クリスタ長堀」が代表でしょうか。
地下街から地上に上がる街の変化がありました。
南船場と南堀江です。
古い建物をリノベし、まるでパリの裏道のようにおしゃれな雰囲気となったのです。
今から20年前でしょうか、次々とアパレルやカフェがオープンし、家賃が跳ね上がり青山表参道より高いことがありました。
そして現在、またあたらしいムーブメントが起こっている気がしています。
大阪主要駅の梅田と難波の上にある巨大モールです。
ミナミとキタに分かれますが、キタの方もミナミの方も「街にでかける」場合ここから一歩も外に出ないそうです。
つまり、街が「タテ」になったとも言えそうです。
確かに、買い物から飲食まで「一日中」かかりそうです。
このトレンドは、大阪に限られた事なのか全国に波及していくかはわかりません。
また、ECからの変化「実物を見て買う」へのシフトなのか、いずれにしても従来の街ではないのは確かです。
街歩きの中でモールにないもの・・・・って何でしょうか。
個々の建物、街路樹、川、日の光、風、四季・・・。
住宅がタテ化しているので、街もタテ化していくのは否めませんが、何か情緒みたいなものが不足していく気がしました。

朝食の窓に朝の光が差し込んでいました。

黄色く染まる御堂筋を歩くと

昨晩、光に包まれていた淀屋橋がありました。

土佐堀川にかかる橋でもとは1700年ころ掛けられ、現在の橋は1935年に作りかえられたものでパリのセーヌ川を参考にしたそうです。

橋を渡り

川沿いを歩くと、川の風が心地よく撫でていきました。

しばらくするとライトゥンナップされていた大阪市中央公会堂が見えてきました。

この建物は1918年に建築されたもので、東京駅の設計を行った建築家も携わっています。
国の重要文化財に指定されています。

昨晩のレストランは

モーニングの人たちに変わっていました。

栴檀木橋(せんだんのきばし)を渡ると

別のカフェが見えます。

クルーズ船が流れます。

エントランスに並ぶゲストを待つ川沿いのカフェが、忙しそうに開店準備をしていました。

北浜周辺の川沿いのカフェを見ながら橋を渡り

京阪電車、北浜駅から

扇町に行きました。
初めての京阪電車、地図を見ていると「どちらまで?」と若いバギーを押すパパに声を掛けられました。
この光景、毎度大阪では当たり前ですが、東京ではめったにありません。
それから、今回とても驚いたこと・・・高校生や若い世代が「関西弁」で会話していないことでした。
もちろん全員ではありませんが・・・。
以前、店舗では関西アクセントは「なし」でしたが、仲間同士では会話されていました。
「関西」のことば・・・過去になって欲しくありません。

駅を降りると天人橋筋商店街があります。

寺町の参道として作られ、400年の歴史があるそうです。

昨日の物件を再確認し、帝国ホテルのホールを抜け

ここは、旧三菱金属大阪精錬所の跡地を再開発したときに建設されたものです。
古い建築物をオマージュしたようなデザインになっていました。

旧精錬所の前を流れる川を舟が過ぎていきました。
当時、川が輸送手段のころ、ここをどのくらいの船が行き来していたのでしょうか。
水面に写された時空が、戻れない流れにつながっていました。

精錬所時代からある正門の門柱です。

ここからタクシーで南堀江に向かいました。

古い建物をリノベして

最構築された

洗練された街。

ランドマークの建物も健在でした。

アメリカ村、通称アメ村はすぐそばです。
しばかれたら困るので先を急ぎます

すごい人と活気です。
タテの街の方々に言わせると、地元の人は「タテの街」から出ないためほとんど観光客だと言っていました。
僕も含まれています。

三角公園です。
たこ焼き屋さんはどこも行列でした。
僕は、以前並んでたこ焼きを「たこなし」でいただいていましたが、店長に本気で怒られてしまってから「たこ焼き」食べていません。
本当に大阪のたこ焼き、とろとろでソースと絡まって、口の中でとろけるようで、熱いの「ハフハフ」しながら・・・・・・・いただいて・・・・タコ取り出した後・・・最高!

アメ村を過ぎると

心斎橋に出ます。

御堂筋の黄色が胸に染みてきます。

御堂筋を背に地下鉄に乗り、新大阪から下北沢に帰りました。
大阪ラプソディ・・・・。